国際情勢の中で、日本のとるべき方向性を考えます。地政学、リアリズム、プロパカンダの観点から、日本の真の独立のためのヒントとなる情報を発信してゆきます。
国際情勢の中で、日本のとるべき方向性を考えます。地政学、リアリズム、プロパカンダの観点から、日本の真の独立のためのヒントとなる情報を発信してゆきます。
戦後、東條英機にたいする日本国民の評判は決して良いものではなかった。つねに「悪人」のイメージが付きまとっていた。極東国際軍事裁判(東京裁判)においては、最後まで東條の弁護人が選定できず、結局、清瀬一郎立会人自身が担当することになったほどである。
いまでも覚えているが、私の通っていた中学校に勤続四十年の名物教師がいた。東條の自殺未遂の報に接して、その教師は「ピストル自殺をするならば、なぜ東條はこめかみに銃口を当てなかったのか。情けない人間だ」と憤概していた。私自身もそれを聞いたときにはその通りだと思ったものである。
後日、清瀬弁護人によれば、こめかみを撃てば頭部に多大な損傷がでてしまう。それを写真に撮られでもしたら、後世に恥ずかしいと東條自身が考えたそうである。だから心臓にマーキングして、そこを撃ったのだ、ということだった。
この「東條英機宣誓供述書」は、東條が昭川和十五(1940)年七月第二次近衛内閣に陸相として入閣してから、昭和十九(1944)年七月内閣総辞職するまでの四年間の日本の政治の推移と戦争の動向について、日本国を代表する責任者である東條英機が、東京裁判の証言台に立つにあたり、腹蔵なく語ったものである。
一読すれば、東條が覚悟を決めて本当のことを述べようと、最善の努力を傾注していることが行間から見て取れる。そこには、虚飾や人を貶(おとし)めんとする気持はいささかも見当たらない。
この供述書が占領下の日本で発禁文書であったことも重視すべきである。パル判決書もそうであった。これらの文書を占領軍が公開できなかったのは、そこには真実が述べられており、運合国側こそ大戦の原因になっていること、また東京裁判の訴因は虚構、あるいは夢想であることが白日の下にさらされることを、占領国側が怖れたからであるに違いない。
今回この「供述書」を改めて読み通して、私が少年のときに感じたことと同じことを言っているなあと感慨を覚えた。それは一言で言うなら、日本が真綿でじわじわと首を絞められていっているという閉塞感のようなものである。蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシア)オランダ政庁との交渉が決裂したとき、子供心に目の前が真っ暗になった。ああ、いよいよ戦争かと思ったものだ。
なぜそう思ったか。それは「日本に石油が来ないこと」を意味したからである。「供述書」を読んでいくと、石油資源をいかに確保するかが、当時の日本と東條のいちばんの間題であり関心事だったことが解る。
ここに書かれていることは、当時の日本の立場を、当時の日本国の最高責任者であり、誰より情報を把握している人間が包み隠さず述べたものである。しかも反対尋問付きであるから、ウソは言えない証言なのである。そしてこの供述にウソがあると反証されるべきものは、何ひとつない。
したがって、東條の供述や見解に賛成反対にかかわらず、今後あの時代の昭和史を書くならば、必ずこの供述を参考にしなければならない。あの当時日本の立場について、日本の首相が考察し、それを議会が承認し枢密院も承認し、天皇陛下も承認せざるを得ない事情があったことを理解しなければ、日本が一方的に悪い国だったと見えてきてしまう。それは歴史にたいして公平な態度ではない。
東條英機は、五十六歳のとき第二次近衛内閣で陸相としてはじめて入閣するが、それまで陽のあたる出世街道を歩んだわけではなかった。歳の近いフランクりン・デラノ・ルーズベルト米大統領と比べると、ルーズベルトが大統領に就任したとき(1933年・51歳)には、陸軍少将、陸軍省軍事調査部長だった。その後は、関東軍憲兵隊司令宮として、満洲に派遺され中央の政治とは物理的にも遠い場所にいたのである。
ではなぜ、そんな東條にスポットライトが当たったのか。そこには、二・二六事件が関係している。事件が勃発したとき、東條は満洲にいたが、叛乱に与(くみ)した者たちを徹底的に取り締まったことが、昭和天皇をはじめ陸軍首脳の目に止まったのである。その有能さと厳格さの故に、重臣たちや陸軍首脳たちに東條を信頼感服せしめたのだった。
時局は風雲急を告げていた。シナ事変は、第一次近衛内閣の「蒋介石政府を相手にせず」という愚かな声明のために、収拾の目処(めど)がつかなくなっていた。やるべきでない戦争をやっているのは誰の眼にも明らかだった(東條は引き込まれた戦争だったと述べている)。ヨーロッパも抜き差しならぬ情勢であり、関東軍は強大なソ違軍と国境を接して相対峙していた。そんな折に、徒(いたずら)に時間を浪費しては、再び二・二六事件のようなことが起きる可能性が充分にあった。ではその陸軍を完全に押さえられるのは誰かということで、東條しかいないと白羽の矢が立った。
東條は、陸軍きっての努力家であり頭脳明晰な人だった。石原莞爾からは想像力が足りないなどと批判されたが、正確に物事を把握し、記憶力は抜群であり(メモ魔でもあった)、彼の事務能力は「超」がつくくらいに優秀だったと言われている。そういう人物の記録である。いくつか記憶違いはあっても、直ちに訂正している。
彼は自分の責任について、その範囲は国際法や刑事法に照らしてではなく、自分の職権範囲内のことにたいして責任を取ると言明している。そして東條は衷心からの天皇崇拝者だった。天皇の信頼も厚く、東條にたいする天皇の信頼は最後まで揺るがなかったと言われている。
繰り返すが、この「東條英機宣誓供述書」は、近現代史の超一級の資料のひとつとして見直されるべきである。もしヒットラーがこのような資料を残したら、誰もがそう扱うに違いない。それに匹敵するくらいの価値があると言っていい。
しかしながら、残念なことに、ここに書かれている東條証言が引用された文献等をあまり見たことがない。東條英機「悪人」説があまりにも蔓延(はびこ)って、参照するに足らずという空気があるのではないか。だとしたら、それはとんでもない間違いである。
近現代史を著述する人たちが陥りやすいのは、日本がやってきたことを単に時系列的に並べて済ませてしまうことである。その作業だけでは、日本は侵略国だったという単純な図柄しか見えてこない。
この「供述書」を読んでも解るように、東條や日本政府がその都度選択した政策は、米英蘭等の相手国の出方(でかた)があっての反応であり、そこには因果関係がある。日本は闇雲に戦争に走ったのではない。その流れを把握しなければ偏頗(へんぱ)に陥ってしまう。幸いにして、この「供述書」は、「いかにして日本が自衛の戦争をしなければならなくなったか」の経緯が詳(つまび)らかにされている。
前述したように、日本は石油や鉄鉱石などの原材料が自前で産出できない。1930年にアメリカが課した高関税をきっかけとして、世界経済はブロック化し、貿易量は1930年から31年の一年間に半分近くに滅少したとまで言われる。
「供述書」には出てこないが、当時の言葉で「アウタルキー(autarky)」という言葉がある。これは「自已完結経済単位」と訳されるが、要するに輸出入しないでも近代国家として生きることのできる領土を持っているということである。「供述書」にも出てくるが、「持てる国」(=haves)とは、アウタルキー国家であり、当時で言えばアメリカ、世界の四分の一を植民地にしていたイギリス、インドネシアを領土としていたオランダ、そのほかフランス、ソ連である。
東條は、日本が非アウタルキー国家であることを終始一貫主張している。それでも外部から必要な資源などが輸入できれば問題ないのだが、当時のブロック経済のもとでは、それがなかなかできないという意識が絶えず東條の頭のなかにあった。だから、原材料を押さえているアメリカやイギリス、オランダを相手に戦う発想は、東條にはなかった。
そして、「持たざる国」(=have-nots)というのは、奇しくも松岡洋右が画策した日独伊三国同盟の三国であるドイツ、イタリア、日本のことだった。ドイツも石油のためにはルーマニアに進出しなくてはならないと考えていたくらいである。
第三次近衛内閣が発足して間もなく、日本は南部仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナム)のサイゴン近辺に進駐する。進駐の理由は、何よりもインドネシアなど石油資源・鉱物資源の宝庫である南方地域との断絶を恐れたからだ。
その結果、アメリカによる在米日本資産凍結、石油全面禁輸という強烈なしっべ返しを食らうが、日本からすればルーズベルトやヨーロッパ要人の発言から、日本が進駐しなければ仏印を彼らに押さえられそうだと判断せざるを得ない状況にあった。石油問題でアメリカが緩和してくれれば撤兵する用意があった。
ちなみに、石油不足が当時の日本人をどれだけ悩ましていたかというと、こんな逸話がある。
日本海軍を代表する知性の一人、山本五十六が海軍次官のときのこと。葉か石油を生み出す方法を発明したというインチキ話に、彼が引っかかってしまったというのである。ことほど左様に石油の問題は、戦前の人間の平衡感覚を麻簿させてしまうものだった。いくら立派な軍艦や戦闘機をつくろうが、石油がなげればタダの鉄の塊でしかない。
日本はアメリカの強固な対日制裁を受けながらも、アメリカとの対話をつづける努力をしていた。ルーズベルトは日本を撃つべしという腹はあったものの、アメリカ国民は、自分の国が第一次大戦で参戦し多大な犠牲を払いながら、得るところが少なかったことをまだ覚えていた。そのために、日本と戦争することにたいして反対の意識が開戦直前まで強かった。
その交渉のなか、コーデル・ハル米国務長官が対日覚書に添えた「オーラル・ステートメント(口上書)には、「不幸にして日本政府の指導者のなかには、ナチス・ドイツの侵略政策に深く関与する者がいる」と書かれていた。
これは明白な内政干渉だが、その人物が松岡外相だということもまた明らかで、彼を日米交渉から外すよう要求してきたのである。そしてハル同様、第二次近衛内閣も松岡をもてあましていた。結果、近衛は彼の首を切るべく、内閣総辞職をして、第二次近衛内閣を組閣する(1941年7月18日)。当時の制度では首相が閣僚を自由にクビにできなかったからである。近衛は本気で戦争回避を考えていたのだった。アメリカはハル四原則を繰り返し、日本のシナからの撤兵と三国同盟にたいする態度について、明確な譲歩を求めていた。
私自身は、もし三国同盟を解消するなら、このときしかなかったと思う。というのも、このときだけは口実があったからだ。ドイツがソ運と戦争を始めたからである。日本はソ連と中立条約を結んでいる。だが、ドイツとは同盟関係にある。その捩(ねじ)れを解消すべく、このときに三国同盟を破棄すればよかったのにと思う。そうしていたなら、日本は戦争を回避できたかも知れない。これ以降は誰が首相であっても、戦争は回避できなかったのではないか。
アメリカは、この後交渉しても一歩も譲ったことはない。駐日英大使がイーデン英外相に電報を打っているが、そこでは「松岡の辞任や目本の石油備蓄状況などを鑑(かんが)みると、いまがアメリカとしても日本との交渉の好機ではないか」といった趣旨のことを報告している。しかし、アメリかにはまるで歩み寄りの姿勢は見られなかった。この段になっても、日本の政府も軍部もともに対米戦争の計画は持っていなかった。後日、東京裁判で争われた「共同謀議」が意味を成さないことを示すひとつの証左と言える。
そして昭和16(1941)年9月6日の御前会議を迎える。ここでは、「弾発性」という言葉を使って、徒に対米交渉をずるずると延ばせば、米英蘭による対日制裁のために、日本は戦う力を喪失してしまうということを克明に述べている。石油なし、屑鉄なしで、日本の防衛を司る統帥部としては一歩も譲れなかった。
またシナ撤兵間題についても、譲歩しない理由を「もしここで撤退したらシナの侮日(ぶにち)思想はますます増長し、第二第三のシナ事変が勃発するに違いない」と言い切っている。撤兵したくとも軽々にそうすれば、さらなる混乱が大陸に、そして日本とシナとのあいだに巻き起こることを東條は危惧(きぐ)していたのである。現在のイラク問題で、容易にアメリカが撤兵できないことと同じだろう。
第一二次近衛内閣総辞職(1941年10月16日)は、東條と豊田外相の意見が合わないことが原因とされた。近衛は、私邸である荻外(てきがい)荘で陸海外の三相と企画院総裁との会議を開いた。
近衛と豊田は外交的妥結があると主張したが、東條はシナ駐兵間題では譲歩はできない、戦争の展望については九月六日の御前会議で論じたことで、いまさらその還元はできないとした。及川海相は首相一任という意見であった。その会談の前日、海軍はアメリカとの交渉継続を希望するが、そのことは言えないので首相一任とする旨を、近衛に伝えていたのである。
それを事前に自分も知っていたら、陸軍としては納得する余地もあっただろうと東條は述懐しているが、海軍としては「戦争ができない」とは公然と言えなかったのだった。しかし自信がないなら、そう主張すべきだったのだが、海相は会議では口を開かなかったのである。
「供述書」を読んでいくと、東條としては、九月六日の御前会議の決定を白紙還元しなくてはいけないという意見をすでに持っていたことが解る。そして、天皇御臨席の御前会議の結論をやり直しをするのは、普通の内閣には容易なことではないからと、近衛の後任には、皇族である東久邇宮稔彦を適任と考え、それを近衛に伝えていた。その提案に反対して、逆に東條を後継首班に推したのは内大臣木戸幸一であった。
大命降下において、木戸は、天皇陛下は最後まで戦争反対である、したがって九月六日の御前会議決定にとらわれないことを、陛下の思召(おぼしめし)として東條に伝えた。それで、東篠は九月六日の御前会議を自紙還元して、有名な甲案乙案をもって対米交渉に入る。
しかし十一月二十六日、ハル・ノートがアメリカより提出される。東傑内閣は、ハル・ノートをアメリカ側の最終通告だったと認識していた。ここで私が残念だったと思うのは、なぜハル・ノートを世界に向けて公開しなかったのか。ここでは日本の言い分はすべて蹴られていた。もし公表していたら、世界中が同情したに違いなかったと思う。そうしなかったのは、東條内閣の最大の失敗の一つだろう。ただ詮方なきは、ハル・ノートは乙案を飛び越して、ハルがその内容に関わっていなかったことであろう。
ハル・ノートというのは、ハリー・ホワイト米財務次官補が作成した。彼は戦後、ソ連のスパイだったことが明らかになっている。ソ連指導部は日本の軍事的脅威を除くため、アメリカを早急に対日参戦に偲す「スノウ作戦」をすすめていたという(1999年8月22日付産経新聞朝刊)。
ハル・ノートを見て、日本はついに戦争がはじまるといった重苦しい雰囲気に包まれた。ここまでの「供述書」を読めば、相手の出方によって、東條が思慮に思慮を重ねながら一歩一歩国策を選択し決定していった経緯が解るだろう。そして、彼は開戦の決定の責任が「絶対的に」天皇にないことを明言している。そして天皇が東京裁判にかからないことが東條の一番の願いでもあった。
天皇に戦争の意思がなかったことは、開戦の詔勅(しょうちょく)に「豈(あに)朕ガ志ナラムヤ」と入れたことでも明らかだった。この修正文言には周囲の反対があったとされる。天皇は戦争をやる気がないのか、それでは士気が下がってしまうと。しかし、これは天皇の「聖旨」の体現だった。と一緒に「皇道ノ大義ヲ中外ニ宣揚センコトヲ期ス」という文言を「帝国ノ光栄ヲ保全センコトヲ期ス」と修正した。これは日本国の面子を棄ててはいけない、膝を屈して無条件降伏はできないという意思のあらわれでもあった。
この「供述書」の最後で、東條はあの戦争が国家自衛戦だったことを縷々(るる)述べている。これが奇しくもマッカーサー元帥が、米上院軍事外交合同委員会(1951年5月3日〜5日)で発言した証言とまったく論旨が同じなのである。
マッカーサーは、「日本には固有の原材料がない。石油も産出しないし、錫(すず)・ゴムといった多くの原料がない。もしこれらの原料の供給が断ち切られたら、一千万人以上の失業者が発生する。だから、彼らが戦争に突入した主たる動機は、自衛のためだった」と言っているのである。この証言内容は、もっと日本人の知識として広まるべきであるということを、ここに言っておきたい。
そして「供述書」の締めくくりとして、東條は、日本帝国の戦争は侵略でも搾取でもないと言い、自分は日本があの戦争に負けた責任こそ負うべきであっても、東京裁判で問われている「共同謀議」「平和に対する罪」といった「戦争犯罪」を犯してはいないと喝破(かっぱ)している。
その毅然として論理的な東條の姿にたいして、イギリス外交官の良き伝統の資質━それは一流の学者にして著述家であることだが━を、日本人として持っておられる岡崎久彦氏は、戦争の勝ち負けは別として、対外的には日露戦争勝利時の首相だった桂太郎よりは、東條英機のほうが立派だったのではないか、と指摘されている。蓋(けだ)し名言であろう。
著作の画像やリンクをクリックすると、その本を注文することができます!まだお手元にない場合は今すぐクリック!